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2004/01/18 05:35:00   今日の一言: (( 奇跡 ))

[第 01693 回]
ほら、なんとなく目があいてるようだろ。それに、お腹も動いていて息をしているようだ。
でも、頬をなでると、もう、冷たいんだ。

今回は長文過ぎる上に、極めて私的な日記 (普通日記なんてそういうものだが) の為、忙しい人は読み飛ばすことをお勧め
します。全部読むにはどれだけ時間がいるのだろう?



1月12日(月)
この日は、全てが余りに一瞬で、そして途方もなく長い1日だった。
明け方、5時半頃だったか、病室に泊まり込んでいた弟からの電話が鳴った。
自分は3時頃に寝ていて丁度夢を見ているような時だったが、一瞬で目が覚めた。
自分は親の家にいる間、父のベッドに寝かせて貰っている。隣に寝ていた母も目を覚ましたようだった。
血圧が 65 程度にまで落ちたので、家族を呼ぶようにと言われたという。
確か前の晩病室を出た時は、それでも 100 を上回る程までに回復していた筈だ。
そして、60 台というのは、相当危険な値と言える。
2人で慌てて飛び起き、簡単に仕度をして家を出た。道すがら、伯母に電話をし事態を告げる。
しかし丁度前日に、明け方が危ないという話をしていた翌日だっただけに、まさかという思いだった。
そして駅前でタクシーに乗り込み、今度は父の実姉に電話を入れる。携帯は何度も駄目で自宅電話で漸く繋がる。
実は寝た時に少し頭痛がしていてやや軽い吐き気を感じていた。
それがタクシーに乗ったせいで、かなり吐きそうに気分が悪くなったが、余り気にならなかった。
ただ、寝る時から、父が以前一度だけ経験してからひどく痛がり精神的にも苦痛だったとして本気で嫌がっていた導尿の処置
を、仕方なかったとは言え殆ど痛みや意識がないことをいいことに (という訳ではないが) して貰うことになってしまったこ
とをひたすら後悔していた。今となっては苦痛を取り除いてやることだけが、出来ることだというのに。
タクシーの運転手が、病院近辺に地理に不案内ということだったので、新宿でタクシーを乗り換えた。
そして、怖いと言って震えている母の冷たい手を握ってやりながら、ふと不謹慎かも知れないことを考えていた。
それは、かつて大家族が当たり前だった時代には小さい頃から数多くの身内の死を経験していきながら人は色々なことを学び
いざという時にはそれなりに心の準備ができて対応できるようになったのだろうか、そして現代においては子供時代から寿命
の短いペットを飼うことによって似たような経験が出来るのかもしれない…と。母はまだ実の両親が何とか健在で、初めて経
験する身内の死 (実際には父の父親が亡くなっているがそれとはまた違うだろうから) が、よりにもよってまだ 60 歳と若い
自分の夫であり、自分もまた 50 ちょっととこれからという身であること、それらの出来事がいっぺんに今度こそ現実になる
かもしれないという瞬間に怯えるのは、仕方ないことだろうと思う。特にうちの母親の場合そういうのがからきしダメだから。
しかしそう言う自分もまだ 30 になったばかりで、こういうことには疎くて、なかなか実感が湧かないだけかもしれない。
タクシーを乗り継ぎ、飛ばしただけあって、病院には思ったより早くに着くことが出来た。
病院に着くと、医師はまだ来ていなくて、看護婦と弟が病室の中にいた。
父は、ひたすらぜいぜいと苦しそうな息をしながら (でも呼吸幅は安定している) 横を向いた状態で寝ている。
血圧は何とか 65 程度を維持しているということだが、そこまで来ると一気に下がるというのが一般的ということだった。
点滴を見ると、いつものに加えて「循環不全改善薬」のような表記のあるものがある。恐らく強心剤のようなものだろうと思っ
たが、後に聞くとやはりそういった類のものだった。つまり、強心剤のようなものを使って、やっと維持しているという状態
ということだったのだ。
強心剤は心臓を鞭打って無理矢理働かせる。つまり心臓にとってはもの凄い負担となるわけで、本人はひどく疲労を感じるこ
とだろう。それはとても望むところじゃなかったけど、病院の判断でその方が良いということだったのだろう。しかし、その
薬を以てしても、低い血圧をどうにか維持しているという状態なのだ。心拍は倍加しているのに血圧は上がらない。心臓の筋
力が衰えていて、血流を循環させる力を生まないのだ。ただひたすら、本人が疲れるだけなのではないか…。
皆が声を掛け、また手を握り、さすってやっても、本人は苦しそうに呼吸をしているだけで、反応はない。
そう思っていると、一時的に目に輝きが戻りこっちを見たような気がした。そして微かに涙が浮かぶ。
自分を見て涙ぐんだのだと母は言うが、この時どれだけ意識があったのか分からない。その後、また反応はなくなった。
そのうち、母の兄夫婦が到着した。続いて医師も到着し、状況の説明をしてくれたが、目新しい情報はない。
弟の話では、前の晩に母と自分が出てから暫くして若干血圧が下がり始めたのだそうだ。
そして自分がまだ寝る前の2時過ぎから更に血圧が下がり、その状態が暫く続いた後、家族を呼ぶように言われたらしい。
本人の様子は、たまに息の深さは変わるものの、呼吸の周期は比較的安定している。
とは言え、喉に痰の詰まったような苦しそうな息づかいは変わらないし、相変わらず呼びかけても殆ど反応はない。
ただ、父はその若さと、他の臓器が健康そのものであったことで、苦しみながらもその生命を維持し続けていた。
血圧も測定不能となりつつあった。つまり、測定しても 60 を下回っていて正確は値が分からないという状態。
タクシーの中で連絡してから約2時間経った頃、千葉に住む父の実姉が病室に到着した。
父の実母は連れて来られなかったらしい。この時既に朝も8時近くになっていた。

だが、その時、奇跡が起こった。
父の実姉が、昔の呼び方で父の名前を呼ぶと、それまで誰が呼んでも無反応だった父が、目を開け (その目には光があった)
そして微笑んだのだ。あまつさえ声も出したと思うが、今そこの記憶ははっきりしない。
父の顔の脇でその様子を見ていて、その余りに奇跡的な出来事に思わず涙が溢れ、泣きそうになるのを抑えるのは容易でな
かった。喉元が熱くなり、声が出ない。物理的に声が出たとしても、言葉が見付からない。
その場にいた誰もが驚き、感動に咽んでいた。それは、正に、奇跡としか言いようがなかった。
前日から殆ど意志の疎通が不可能になり、朝来てからは全くと言っていいほど反応のなかった父が、実の姉の呼び掛けに意
識を取り戻し、一時的にしろ正気に戻ったのだ。これだけ生命維持に精一杯の状態で、脳もどれだけ機能していたか分から
ないというのに、たった一言が父を夢から目覚めさせた。それは何より、父の頑張った結果なのだろう。
しかしそれも一時的で、暫くしてまた父はその目をつむり、苦しそうな寝息を立てるのだった。
そしてその苦しみは徐々に大きくなり、苦痛に顔を歪めるようになってきた。いつも我慢強く、そもそも痛みには強い父。
その父がこれだけ痛がるというのは、尋常ではない。実際、痛いのか苦しいのか、それ以外なのか、本人にも分からないの
だとは思うが…。この日も何度か、吸引で痰を取った。前日までは、反射的にでも手を挙げて払いのけるような仕草を見せ
たのに、この日はチューブを噛むのが精一杯で、朝以降は苦しそうにするだけでもう抵抗することもできなかった。そんな
状態で、これだけ痛がるというのは、やはり尋常ではない。痛み止めをお願いすることになった。
看護婦が医者と相談して、ゆっくりなら痛み止めの点滴を使っても良いということになったと病室に来た。しかし、それは
呼吸を弱める (呼吸が止まることもあるというように言ったかも知れない) という。恐らく、それはモルヒネで、そうだと
すると確かにその可能性はあるだろう。父の苦悶の表情も幾分和らぎ、やや穏やかな表情に戻ったので、一旦それは中止す
ることになった。
だが暫くしてまた父がひどく痛みを訴えるようになり、とにかく苦痛なく休んで貰いたい一心で痛み止めの点滴を追加する
ことにした。もう助からないのであれば、少なくとも痛みや苦痛を感じず気持ち良く休んでいて貰いたい。だから、痛み止
めという選択肢はここに及んでは絶対的なものだったと思う。自分としてはこれは正しかったと思う。
ただそのモルヒネの点滴も、それが余りにゆっくりのせいか、なかなか効かない。苦痛を浮かべるその表情を見る度、居た
たまれない気持ちになる。
時間が経つのはあっという間で、既に日は昇り 10 時近くになっていた。実際、この辺の時間経過はうろ覚えなので、若干
事実の前後関係やおよその時間は食い違っているかもしれない。ただ、ふと気付くと 10 時で、外も随分明るくなっていた
というのは覚えている。
ずっとさすってやったりしながら父の顔を見ていると、いつしか自分の呼吸が父の呼吸の周期と同期してくる。その後、母
も同じようなことを言っていた。そういうものなのかもしれない。
最初の痙攣が起きたのはいつだったか。最初は苦痛の余り瞼が震えているのかと思った。実際、その表情はひどく苦しんで
いるように見えた。その後、上半身右側がびくびくと大きく痙攣し、抑えるのが大変な程だった。慌てて看護婦を呼び、看
護婦は父の体を左向きに横倒した。気道が確保されたのか痙攣は治まったが、鼻の酸素チューブは酸素マスクに交換された。
暫くすると薬も効いてきたのか落ち着いてきて、少し穏やかになってきたようだった。
そして、何と、また目に光が宿ったようになった。
相変わらず呼吸は苦しそうなのに、瞳が動いてちゃんと人を見ている。
そしてそれが誰なのかちゃんと認識しているかのような反応を見せ、笑ったような表情で、大きな声で話し始めた…。
話したと言っても、それは息を吐くのに合わせて喉で声を出しているだけなのだが、誰にもそれは話をしているように見えた。

それは本当に二度目の奇跡だった。本当に信じられない思いだった。
実際、何を言っているのかは分からないが、それぞれ顔を見ている人達にお礼を言ったり苦言を言ったり今後の心配をしたり
しているように見えた。それはそれまで父が皆にしていたことだった。
皆、口々に父に話しかけ、励まし、やや沈みがちだった病室が少し明るくなった。
そして父はそれがもう止まらないかのように、「話し」続け、それはかなり長い間続いた。皆も涙ながらに励まし続けた。
ただ、それは誰の目から見ても無理をしているように見え、実際、その結果痙攣が始まったこともあった。
自分も自分の番ではただ頷き、そしてもう大丈夫だしあとは任せてというようなことを言い、さすってやった。
実際のところどれだけ個々人を認識していたかは分からないけど、それが自分に近しい存在だったことは分かっていたんだろ
うし、話の内容も言葉にはなっていなかったけど様々な思いや感情が声となって表れたんだろう。あれだけの身体状況でこれ
だけのことが出来るというのは、正直言って奇跡としか言いようがない。でもやっぱり、その奇跡は本人が常日頃から他人の
ことばかり考え、その為に無理をしてきたその態度と頑張りが生んだものだった。
余りに無理をし続けては負担がひどくなると思い、もう疲れるから休んでと言っても、話し続けようとするのだった。
でもその表情はとても穏やかで、そして心なしかひどく嬉しそうに見えた。呼吸は相変わらず苦しそうな音を立てていたが…。
その後はまた眠りに入ったが、何度か上半身の痙攣があった。その前兆は大抵瞼の痙攣に始まり、ひどく苦しそうに見えた。
特に右側がひどく、右腕から頭にかけて大きくばたばたと波打つようにびくびくと動き、押さえても押さえきれない。
痙攣の度に看護婦を呼ぶも、特に何ができる訳でもない。
それでも、本当に一時的に瞳が動いて、声のする人を探そうとしたことがあった。母の兄夫婦が顔を覗き込むと、確かに反応
しているようだったし、声を掛けても何か聞こえているようにも見えた。
しかし、徐々に呼吸は深くなり、何度も呼吸が止まったかのようになる。そのうち、それまでで最も大きな痙攣が起こり、今
度は身体全体が痙攣した。その直前に起きた痙攣では、ずっと横を向いていた頭が上向き、暫く呼吸が止まった。それで慌て
て看護婦を呼んだのだった。この時は皆が声を掛け、ゆさぶったりしているうちに、どうにか呼吸が戻ったのだった…。
この時既に、一時は計測がぎりぎり出来るようになった血圧は完全に計測不能になり、脈拍や酸素量の測定が手の指だけでは
なく足の指でもできなくなってしまっていた。推定では血圧も 40 程度ではないかということだった。
呼吸の間隔はどんどん広がっていき、それは既に、身体がそれほど酸素を必要としなくなってきているということの証拠でも
あった。
そのうち瞼はまばたきをしなくなり、眼球を保護するために粘膜が眼を覆い始め、ますます目から光が失われていった。瞳も
もはや動かない。涙を拭いてやると、ティッシュに黄色い液体が染みる。その黄色い液体は、まるで、点滴の液体のようでも
あったし、黄疸で黄色く染まった目の色そのものでもあった。
呼吸がひどくなる度に痰の吸入を行っていたが、ここまで来ると殆ど痛がることも減ってきていた。
そうしているうちに医師がやってきて、心臓の波形が安定していると言って、病室は安堵の雰囲気に至った。
そして皆が互いに今の内に昼食に行ったらどうだと勧めている時、また父が苦しみ出し、看護婦に痰の吸入をして貰った。
本当はそういう吸入の措置は、ひどく負担になるもので、余りやらないようにしていたのだったが、余りに苦しむ時はするよ
うにしていたのだ。しかし放っておくと窒息死してしまうから、仕方がない。
吸入はやはり苦しいようで、喉が抵抗するように鳴っていた。そして、一呼吸あり、吸入が終わる。
呼吸がない。
何度大声で呼び掛けても、ゆさぶっても、びくともしない。何をしても、自発的呼吸が始まらない。
前の晩から付けられた心電図の為のセンサーは電波か何かでその結果を飛ばす仕組みらしく、それをナースステーションで確認
できるようになっていたのだが、その確認用の心電図の機械が運び込まれる。続いて、医師も部屋に入った。
医師が心電図の波形を見ながら、これは単純に心臓が波打って動いているだけで、血流を送り出すという心臓の働きはしてい
ないと説明する。そして、点滴も影響するというので点滴も止められた。確かに強心剤のような薬は、単に化学反応によって
心臓に働きかけるだけなので (そう思っているだけで違うかもしれないが、そう呟いた時に否定はされなかった) 心臓が機能
停止しても化学反応の結果として心筋が震えているだけなのだろう。
ベッドを揺らしてもこういった波形は出ると医師は説明し、全ての点滴を止めて1分待ちましょうと言った。
1分後、真っ直ぐのまま乱れのない緑の直線を表示している機械の前で、医師はお亡くなりになったということですと言う。
そして、「私の時計で」と言って腕時計を見やり (その時、全ての人が自分の時計を確認した) 11 時 22 分、お亡くなりに
なられましたというように宣言した。

2004 年 1 月12 日 11 時 22 分、父他界す。享年 60 歳。
…と言っても、還暦を迎えて皆で祝って殆ど直後の入院で、それからおよそ1ヶ月。遂に家に帰ることはおろか、入院の原因
となった吐血の原因である食道静脈瘤の処置入院すら出来ないまま、この世を去った。しかし、余命4ヶ月程度と言われた日
から数えて、およそ1年と4ヶ月。この短い期間を、誰もが感嘆するような充実した人生を送ったことは、誰もが思うところ
であり、それは殆ど尊敬に値する以上のものだった。自分のやりたかったことは余り出来なかったかもしれないが、それでも
多くの人から愛され、そして最後のひとときを家族や親戚などと過ごし、時にはちょっと辛いように思えることも楽しみなが
らやっているのが分かる程で、見ていても良かったと思えるものだった。ただ最後の数ヶ月は、見ていてもちょっと辛そうな
ことが多かったが、それでもその中に幾つかの充実した喜びを覚えていたと思う。勝手なことを言っているかもしれないけど
そのように思えたし、そういうことを言っていたのは本心からだったと思っている。60 歳になったばかりで、これまで誠実
に払ってきた年金も受け取ることが出来ないままとなってしまったが、そんなことよりもこの先まだ長い連れ合いを遺しての
逝去という方が、実は耐えられない苦しみだったのだと思う。だからこそ、今後について色々と弱り行く自身の身体をおして
でも準備をしてきていたのだと思う。志半ばにしてそれらの全てを終わることなく、それが最後まで心残りで仕方なかったよ
うなのがとても印象的で見ていても何とも辛い気持ちにさせられたが、そういうことは全て残った者が引き継いで行かなけれ
ばならないと思う。自分も、或いは弟や母も、徐々にそういったことの必要性を感じて来て、とても全ては無理でも少しずつ
やっていこうとしている。いつも「こんなことしてたら、父に叱られてしまいそうだ」と思いながらも、何とかやっていこう
としているところなので、ちょっとは勘弁して欲しいと思いながら、努力していくことにしている。
最後の最後は少し苦しい思いをさせてしまったが、それまでの数時間はとても穏やかで、時には意識を取り戻すという奇跡を
見せ、それからもずっと頑張って何度か皆に最後の挨拶をしようとするその姿は、そこにいる誰もを感動させるに十分すぎた。

それからは慌ただしかった。
皆が最後のお別れと言われて涙ぐみながら父の周りに集まる中、自分は (伯父と共に) 病室を出て事前に両親が話をしてある
業者に連絡。時間や運び先、連絡先等の調整を行う。また病院側にも搬送は別業者に頼む旨を伝える。それから戻ってみると、
病室は看護婦らによる清めと着替えが行われており、皆はデイルームの方に集まっていた。なかなか気分が落ち着かない状況
ではあったけれど、伯母が軽食を買い出してくれてそれを皆が少しずつ食べ始めると、皆気分がほぐれて笑いに満ちる良い雰
囲気になってきた。皆がいればこんな時にでも笑うことができると父の実姉が言ったが、本当にそう思う。いいことだと思う
し、父もこういうのは喜んでくれると思う。
予定では清めと着替えはおよそ 30 分、業者が病院の霊安室に到着するのはおよそ 1 時間後とのことだったのだが、業者の
到着は 30 分程度早まって連絡が入り、続いて清めと着替えの方も早めに終わった。皆は食べかけだったが、そのまま病室に
入って、荷物整理を始める。父の (自分で) 着てきた洋服や靴等を運び出すのは、ひどく何とも言えない気分だった。そこに
眠る父はぐっすり眠っているようで、漸く痛みや苦しみから解放され、とても穏やかに寝ているように見えた。死後硬直後に
口が開かないように顎に引っかけられた布の右側が取れかかっていたので、右の頬骨のところに掛け直してやったのだが、そ
の頬に触るのが何となく怖くて気が引けた。それでも他の人もなかなか失敗するのを怖がってやろうとしないので、やったの
だけど…。なるべく触らないようにして、さっと直すのがやっとだった。
病室から全ての荷物を出すと、全ての部屋の扉が閉められ、白布を掛けられた父が運び出された。
皆はそれと共にエレベータで霊安室に向かい、そこで簡単なお別れが行われ、自分は簡単な契約書に記入したり、父を運ぶ車
には2名しか付き添いが乗れないとのことだったので後から来る人達の為に搬送業者に搬送先住所の確認をしたりする。
父が運び出された裏口を抜けようとする時、そこに立つ看護婦から死亡診断書を渡され、簡単な説明を受けた。
そしてそこに一緒に立っていた主治医の一人 (ここではずっと医師という表記で書いていたが、とてもてきぱきとして理知的
な女医で本当に信頼出来るしっかりした人だった) に挨拶を済ませ (この時は突然だったのと出る直前で急いでいたのとで簡
単で中途半端な礼しか言えず、今ではもう一度きちんと礼に行きたいと思っている) 父を運ぶ搬送用ワゴン (左ハンドルの外
車だったので、高速の料金所では自分が料金の受け渡しをしていた…) に乗り込んだ。
最初は運転手が他愛のない日常の話をしてくるので (成人の日だから晴れ着がどうの…とか色々) 暫くはそんな話をしていた
が、流石に高速に乗ってからはそういう話もない。自分は後部座席に座る母の更に後ろに眠る父と会話をしたり、或いはやや
ここに来てまた感傷的になり始めていたので、何とか自我を保とうと某さんに元気付けて貰う為のメールをしたり、そんなこ
とをしていた。途中、ボンネットが開いてしまい、路側帯に入ったりもしていたが…。
とにかく、これからは暫く色々な雑務に事務、多くのことで忙しくなる。こういう時に余り感傷的になってはそういった作業
が滞ってしまう。なるべく心を無にして、人前モードな自分になっている方がいい。どうもそのモードにいると、完全に自分
を切り替えることが出来て、そういう事務手続き等をするには都合がいい。実際、実の父が死んだというのに落ち着いていよ
うとすると、そうせざるを得ない。平常心を保つことが一番肝心な時。
父の顔を見たり、父との思い出に浸ったり、ここ数日のことを思い浮かべたりすると、流石に悲しみが襲いかかり色々と効率
が悪くなる。ただ、雑務に忙しくてなかなかそんな余裕もなく、実際父の死後これまでの間にひとりになろうとしても、なか
なかそのタイミングはなく、必ず誰かが来たり連絡が入ったりする。また皆といる時で事務作業がない時は、少しでも皆が暗
く落ち込まないようにしたいと思ってそうやって振る舞おうとするから、やはりそういう余裕はない。
出発は池袋辺りで、目的地は立川という遠方だったので、かなり移動には時間がかかった (お陰で業者の見積もりには距離の
追加料金が加算された)。
目的地に到着し、一行は安置所の座敷に集った。やはり人が入れる安置所に変更して貰って良かった。
皆にはここで、布団に眠らされた父の寝顔を見ながら、思い思いに思い出に浸って貰える。
自分は少し父の寝顔を見て、何故か少し安心しながら、まだ動揺の残る母を連れて業者と今後の詳細を詰める為の打ち合わせ
に向かった。そこの上に事務所があり、そこのゲストルームで打ち合わせが行われた。
今後の予定ということで、通夜告別式の日程 (実際には父の遺志でそういった形式では行わないが、ここでは取り敢えずそう
記しておく) やその際の色々な希望やオプション、料理、遺影の写真の相談 (これは最後の最後まで丁度良い写真が見付から
ずに最重要懸案事項のひとつだった) 等を延々 (一体何時間だったろう。余りに時間が掛かったので途中で皆のところに戻っ
て残り予定時間を知らせに行ったりした程だった。病院を出たのは 13 時過ぎだったのに、この頃になるともう夕方を過ぎて
いた) 打ち合わせた。
そして安置所の部屋に戻り、母と伯母が席を外している間に、暫く父と対面する。
その姿は、本当にきれいで、顔も穏やか。あれだけ苦悶の表情を浮かべていたことを考えると、安らかな寝顔でほっとする。
でも、じっと見ていると、まぶたが動いて、眼もあきそう。
お腹が動いて呼吸しているように見えたのは、勿論気のせいだったのだろうが、でも本気で一時はそう見えたのだった。
実際は自分が呼吸をしていて動いているのに自分の視点がじっと動かなかったので、そう錯覚したのかも知れない。
それでもやっぱり、丁度手を組み合わせているので盛り上がった部分が、呼吸に合わせて上下したように見えたんだ…。
ただ、自分と母が打ち合わせをしている間に、皆も同じようなことを言っていたらしい。
それだけ、父の寝顔はいつもと変わらぬ自然な寝顔だった。
いつものように呼び掛ければ、そのまま返事をして起き出しそうな、その寝顔。
いつものように薄目を開けて寝た振りをしていて、にやりと笑って目覚めそうな、目と口元。
でも、その眼は、もう、まばたかない。

母と伯母が戻ってきたので、取り敢えず今後の予定を皆に説明する。
決まったことの詳細全てをここに書いても仕方ないが、取り敢えず、通夜 (に当たるもの) は翌日どこそこで行うということ (その他宿泊とか色々ある
が省略)、更にその翌日の告別式 (に当たるもの) はどこそこに集まり、火葬場はどこそこであるということ (その他のスケ
ジュール等は省略) 等。
そしてここで解散とし、来て頂いた親戚の方々にはお帰り願った。もう遅い時間になっていたので、遠方から来て頂いた方に
はかなり負担となってしまったと思われ、やや心苦しい。
その後、母と弟と3人だけになり、本当の身内だけで父の前に座った。
ほら、なんとなく目があいてるようだろ。それに、お腹も動いていて息をしているようだ。
でも、頬をなでると、もう、冷たいんだ。
実際、皆が見送りに出たりして自分ひとりで留守番している時に、ずっと父の前に座って父の寝顔を見ていたのだが、本当に
そう見えたし、もう実際には寝息も立てていないということを確認することになるのが怖くて顔には触りたくなかったのだけ
ど鼻に付いた布の糸屑を取ってやる時に頬を触ると、それはもう冷たかったのだ…。

3人で簡単に今後の確認をし、再度上に上がって変更の依頼をする (実際、それは更に変更が入ることとなった)。
その後、そこを出てタクシーを探すがその道路には全くタクシーが通らない。
仕方なく、バスで立川駅に行き、そこからタクシーに乗って母と弟が住む家に行った。
思えばおよそ 12 時間前には、同じくタクシーで病院に向かっていたのだ。
勿論、その時には父は生きていた。そしてそれからたったの 12 時間。その間に、この3人は夫と父をそれぞれ失った。
しかしそのことを実感する暇もなく忙しい1日はあっという間に過ぎゆき、既に外は暗く寒くなっていた。
昼間は風もなく晴れていて良い気候だったのだが、夜にもなると流石に寒いし、昼間の気候なんてその時には誰も気にしてな
んかはいなかった。朝も寒かった筈なのだが、もうとにかく慌てて急いでいたし、それどころじゃなくてそんなの記憶にない。
そのタクシーの後部座席に座り、夜の町並みを眺めていると、ふと昔のことを思い出した。良く考えると、実際にはそんなに
昔でもなく、たかだか 7 年程度前の話の筈なのだが、もっと昔の記憶と被っているのか、遠い昔のような気がする。それは、
(今も使っている) 冷蔵庫や洗濯機等を買いに父の運転する車で少し大きめの店まで行った時の記憶。その日、帰りは夜にな
り、家族4人で車で帰ったのだった。夜、車の後部座席に座って夜の景色を眺めていると、どうしてもその父の運転する車の
後部座席にいるような気がしてならない。何故か、その時、そのありふれた状況が自分にとって特別なものになっていたよう
だったのだ。そしてその記憶は、この日、更に特別な思い出になった。

そして同時に、小学校入学前だったか窓際に置かれた買って貰ったばかりの学習机で、父に自分の名前の漢字を教えて貰った
ことなんかも思い出していた。このことは、昨年末に病院で父に話したこともあった。記憶力がひどく悪くて、良かったこと
や良い思い出なんかすら忘れてしまう自分が何故こんな大昔の日常の断片を覚えているのか、もの凄く不思議なのだが……。
家に着き、一段落しながら、今後の予定や明日の予定、その他について話をした。ごくごく簡単な夕食も軽くとった。
しかしやることはかなり多かったし、皆疲れていてほっとしたのか余り関係ない話になったりして、何とか話を終わらせたの
は 23 時を過ぎる頃だった。
そして自分はやっと自宅に帰れることになった。色々と準備があるので、遅くなったが帰らなくてはならない。
しかし、この連休は全くの予定外のことになった。
本当はこの日、一旦帰宅して、翌日は午前中だけでも出社してから病院に行ってみようと思っていたのだ。
まさに1日単位で状況は変わる。
まさかこの連休で…とは………予想だにしていなかった。
このたった3日間の連休は、余りにあっと言うまで、そしてひどく長い3日間だった。
その中でも、最後の1日であるこの日は、その時は一瞬と思える程に凝縮した時間に感じていたが、振り返ると1週間が過ぎ
去ったかのように思えた。そして、この日は、永遠に特別な日になってしまった。

それでも、忙しさのせいか、何だか全てが夢のようで実感はない。
安置所を出る時には、いつも病院から帰る時に父に言っていたように「また来るからね」と言い残して来たが、本当に普通に
また会えるような気がする。親の家か病院に行けばそこにいるような気がするし、電話をすれば父の声がするような気がする。
駅の階段を下りると、着いたばかりの電車から出てくる人達が階段を上ってくる。慌てて急いで階段を下りると、ぎりぎりそ
の電車に乗ることが出来た。休日ダイヤの 23 時過ぎという時間、こんな田舎駅 (それなのに開かずの踏切で一挙に全国区な
話題の町になってしまったかもしれないが) で1本逃すと次の電車が来るまでこの寒い中、一体どれだけ待たされるか分から
ない。中央線だから 30 分とか待たされるなんてことは幾ら何でもないと思うが、その辺りは良く知らないので…。とにかく
タイミング良く電車に乗れて良かった。
この日は1日、本当に忙しくて、暫くぼーっとして電車に乗っていた。2人程にメールしたのはこの時だったかな。
やっとそんな気分になれたのだけど、ぼーっとしながらなので、何だか良く分からない…。
疲れていたけど寝る気もせず、父のことを考えるでもなく、とにかくずっとぼーっとしていた。
ただ、途中の駅で降りてタクシーで自宅に直接向かおうとしていたので、降りる駅のことは気にしていた。
車中にはどこにでもいるような楽しげな若いカップルが2組程いて、そういうのを眺めていると、何だか現実に戻っていくよ
うな気がした。現実と言うよりは日常かもしれない。電車を降りて改札に向かう途中で歩く人々を眺めていても、改札を出て
見掛ける気持ち良く酔っている人達やタクシー乗り場の前で楽しそうに何かしている数人の若い男女なんかを眺めていると、
何というかいつもと何も変わらない光景なのにとても不思議な世界に感じる。
変わらない世界、変わらない日常。

そう、人がひとり死んだところで、世界は何も変わらない。
何か自分が透明人間にでもなったか、日常の中にあって日常の人間ではなくなったような妙な気分になった。
数日振りに帰宅し、自分の家の机の前に座った時、やはりそこにある日常も、何も変わってはいなかった。
その時、自分も、その日常の中に潜り込んだ。
自分も、結局、何も変わらない…かに思えた。

本当はこの夜やることは非常に多くて、徹夜で仕事をするつもりだった。
でも前の晩から感じていた頭痛と軽い吐き気を更に強く感じ始め、加えていつもの微熱より若干高い熱で、作業に集中できな
くなってきた。もしかして風邪かと疑ったが、もしかして疲労のせいかもしれないと思い友達に聞いてみたらストレスかもし
れないというので、そうなのかもしれない…と思った。だから、スープを飲んでから、いつもの薬だけ飲むことにした。
風邪薬が一服残っていたのだけど、この日は朝病院に着いた頃から胃腸がかなりきつい感じだったので、風邪の可能性が強い
のでなければ飲みたくないと思っていたのだった。
どうにも作業が進まないので、少し昔の父の写真やビデオを見て若干治ってきたような気はしたが集中できなくなったので、
一旦少しだけ寝てから続きをしようと思い、2時頃ベッドに入った。

1月13日(火)
少し仮眠を取るつもりが、流石に殆ど寝ていなかったせいか、朝の8時前まで寝てしまった。
8時半に会社に連絡し、父が亡くなったので暫く休みを貰うということと、2つ程自分が中心の打ち合わせ等があったので日
程再調整の為の伝言をして貰ったりしてから、また 30 分程横になった。
そんなことをしていたので、この日のスケジュールはかなりきつくなった。
風呂に入ったり、今後の計画表を見直したり、弔事に関する様々な資料を探して読んだり、ファミレスでブランチを食べつつ
これやら何やらを書いたり、喪服の準備をしたり、出掛ける仕度をしたり、新宿で必要なものを買ったり現金をおろしてこの
日で切れる定期券を買ったり (これはこんなことになるとは思っていなかった時に、その前の日とかに買うつもりだったのだ
がそれも出来なくなったし完全に忘れていたのをぎりぎりで思い出したものだった) して、立川に向かう時には 16 時近くに
なっていた。本当はこういう時だからと、もっとこざっぱりと散髪に行こうと思ったのだが、中途半端に時間がなくなった。
それにしても、その礼服を喪服として使うのは実はこれが初めてだった。実際、他人の通夜とかは会社から直接行くことが殆
どで喪服を着る機会が殆どない。だから喪服として使うのは、父にその礼服を貰って以来、初めてのことだった。そう、その
礼服は父に貰ったものだった。その礼服を喪服として着るのが、父の葬儀が初めてになろうとは!
…勿論考えもしないことだった。
立川で軽食を取りながら、式の構成や進行についてとか色々考えたり、これを書いたりしながら、母と弟とを待った。
そして3人で簡単に話をしてから、式場に向かった。
3人で大笑いしたりしながら歩いて行ったが、流石に喪主や遺族が笑いながら式場に入るのは余りに違和感がある。
そこからは自制しながら行ったけど、まあ、余り落ち込んだりするよりかはこういう方がずっといいだろう。
まだ納棺まで1時間もあるというのに既に皆が来ていて、かなり時間をもてあます格好になっていたが、取り敢えず自分は母
が午前中に色々と話をした業者の人と色々とそこでの進行その他に関して細かい詰めの話をしたりした。喪主の母より自分の
方がこういう話をするのに適している…というのは誰にも明らかだというのか…。
納棺は、父が寝ている部屋に暫く父の実母がいるので少し時間をずらすことにした。お陰でその間、家族3人は打ち合わせを
継続出来たのだが…。というより、やっぱり母はこういうのには向いていないんだろう…。しかし隣の部屋では父が安置され
父の実母がいてるというのに、この3人ときたら布団部屋で大笑いしながら打ち合わせをしているのから…。でも皆が暗く沈
んだままでいるよりは良かったんじゃないかと思うし、こういうのにただでさえ弱い母や弟にとっては特にそう思う。
納棺は、全員で執り行った。父の望んだ品々は翌日の出棺時に入れることにしていたが、父の実母は父の生まれた時の病院が
発行した (父の生まれた時の足形まで押されている) 古い証明書 − 実際 60 年前なのだから古いのは当然だ − を父の胸の
辺りに入れた。これは、なかなかに感動的なシーンだった。そして、全員でシーツを持ち上げ、父を棺に納めた。その後、同
じく全員で蓋をした。その棺は式場に運び込まれた。
父の残したメモに、当日の進行は自分がするとなっていたので、取り敢えず司会進行をすることになった。
とは言え、通夜というよりはごくごく身近な家族や親戚だけで行うお別れ会のような形なので、幾らか気は楽だった。
弟を除けば皆自分よりずっと年長の人達の前とは言え、やや冗談を交えながら喋れるので、その場で適当に挨拶したりするの
もやりやすかった。但し、お陰で自分が何を言ったのかは、殆どアドリブなので覚えていない。母は、一応父に喪主を任命さ
れていたため喪主挨拶をしたが、カンニングペーパーを常に見ていた…。まあ、それも愛嬌というか、こういう形の式ならで
はでいいんじゃないかと思うけど…父はどう見ていたかな。それから献花に移り、その後食事ということになった。献花に移
る時の司会は言いやすかったけど、献花が終わった時は何て言えばいいのかちょっとうまい言葉がすぐに出なくて困った。完
全アドリブもいいけど、こういう普通でない形式の時は予めある程度考えておかないと…と思ったり…。こういう場だから、
基本的な挨拶を押さえておけば、あとは逆にアドリブの方がいいと思うんだけど、こういうことがあると困る。献花は、実は
父の意向ではない筈なのだが、一応入れておいた。また仏式でも神式でもキリスト教式でもないのだけど、余りに自由過ぎる
のもどうかと思って、献花はキリスト教式に倣うようにしたけど…まあ許してくれるよね…。ちょっと場が静かになると話の
ネタを出してみたり写真を紹介して配ったり色々としていたら、殆ど食べられなかった。それでも、皆が楽しんでくれて、皆
が沢山笑いながら話をしたりしてくれたので、本当に良かったと思う。遺影の父も笑っていて、まるで皆と一緒に楽しんでい
るように見えたのも、本当に本当に良かった。父もこういうのを望んでいたと思う。ちょっと一部段取りが悪かったりしたけ
ど、今回のはある程度仕方ないと思うし…。色々父には突っ込まれそうだけど、結果としては本当に良かったと思う。
それにしても…通夜ぶるまいの際に、父が残した挨拶文を皆の前で読んだのだが、その内容が余りに父らしくて嗚咽しそうに
なって困った。その後、各自に宛てられた手紙を渡したのだが、当然その中には自分のもあった。ちらっと見ただけだったけ
ど、今はこれは読めないと思って封印した。これを読めるようになるのは一体いつになろうか…。ある程度落ち着いてからで
ないと、とても読めないだろうな…。
皆が帰り、3人だけになったので、3人と遺影の父とで乾杯をした。こんな席で乾杯なんてないんだけど、久し振りに家族4
人が揃ったので、乾杯しようと思ったのだ。勿論それまでの席では乾杯ではなく、別の形で始まったのだけど、家族だけなの
だし、式ではないのだからいいんじゃないかと思う。
遺影の前には、式が始まる前に供え物をしてある。食事が始まってからは、父が最後の方で食べたがっていた寿司、そして本
当に最後の最後、まだ何とか意識のある時に美味しいと言って舐めたというオレンジジュースを供えたのだが、その乾杯の時、
父はそのオレンジジュースの入ったコップで乾杯してくれたと思う。遺影の笑った顔を見ていると、何だか本当に喜んでいて
くれるようにも見える。オレンジジュースなんてちょっと可哀想かな…ともちょっとだけ思うけど、今なら舐めるだけじゃな
くてちゃんと飲めて意識もあって本当に美味しく飲んでくれそうな気もした。寿司も、実際それ程美味しいものじゃなかった
けど、ずっと殆ど流動食で最後はもう点滴ばっかりだったから、久し振りに固形物を食べられて良かったんじゃないかと思う。
少しでも喜んでくれると良かったんだけどな。というか、遺影の前でこういうことを書いていると、泣いてしまって困るな…。
本当は、生きているうちに、飲ませてあげたかったし、食べさせてあげたかった。本当なら、昨年暮れに入院してから一旦転
院して食道静脈瘤の治療をして食べられるようにしてから、本来の癌治療をする予定だったから…。
それから暫く3人で少しだけ落ち着いて話をしながら、翌日の日程や内容の打ち合わせを簡単にしたりした。自分は、式の間
ずっと進行や挨拶で喋ってばかりで殆ど食べてなかったので、残ったものをまとめて貰って少しずつ食べた。思ったより食欲
が続かなかったけど、そうやって落ち着いて食べたのは久し振りの気がする。
無宗教で余り堅苦しくない自由な集まりを望んでいた父も、何故か (通夜ぶるまいが終わってから) 一晩中家族が寝ないでお
守りするという仏式的なものを望んでいた (というよりそれが当たり前だと言っただけかもしれないが) のだが、無宗教とい
うことで、お守りする為のろうそくは用意されていない。それに洋式の祭壇飾りとしたので、仏具はあわない。そういう訳で
式の始まる直前の打ち合わせで、自分が慌てて銀の燭台と数本の予備を含むろうそくを手配して貰ったのだった。
その燭台とろうそくは、雰囲気的にも良く似合っていて、とてもきれいだった。2時前後から母と弟は疲れて眠りそうになり
本来であれば全員起きているので不要だった筈だがこうなることを予想して2組の布団を手配しておいたので、別部屋で寝て
貰った。それから6時過ぎ迄2人とも戻って来なかったので、ひとりでずっとこれを書いたり、短くなったろうそくを新しい
のに取り替えたり、片付けその他をしたりしていた。
6時半頃に母と弟が順に起きて来て、自分にどうしても寝ておけと言うのだが、どうにも眠くない。それでも取り敢えず、別
室に行き布団に入った。でも広くて暗い部屋にひとりとなると、すぐに感傷的になりそうでいけない。出来るだけ何も考えな
いようにしようと思ったのだけど、それでも眠気がなくなっていたこともあって1時間くらい眠れなかった。
気付くと寝てしまっていて、携帯の目覚ましで目が覚めた。体が少し重くて少し二度寝してしまって、今度は会社からの電話
で目を覚ます。少し寝過ぎたので慌てて起きたが、髪の毛を直すのに手間取った。やっぱりドライヤーがないのはつらいな。
何か夢を見たと思ったのだけど、忘れてしまった。どうでもいい、いつものような夢だったと思う。

1月14日(水)
起きてから昼になるまで、3人で少し当日の打ち合わせをしたり、業者の担当 (この人は現場担当者としては本当に有能で全
く素晴らしい人だった。女性としての気遣いも併せ持ち正にプロと言える人間でとにかく信頼できる。葬儀屋に対する印象が
随分変わった) に不明点等の確認をしたり、葬儀に関するちょっとした疑問 (釘打ちの由来とか) に答えて貰ったりした。
ここで、釘打ちはしないということになった。父の残したおよその進行にはあったが、釘打ちにはこだわることはないだろう…。
前日に続いてまたも皆が始まる時間よりだいぶ前に集まってしまったのだけど、取り敢えず予定通りに葬儀告別式に相当する
集いを始めることになった。最初に簡単な挨拶、それから事前に色々言われていたので弟に大雑把なスケジュールを言わせて、
前日とは一部だけ参加者が違うということもあって前日同様にキリスト教式のような献花をひとりひとり始めることになった。
前日と違って、皆は献花の後に棺の小窓を開けて顔を拝んで行ったのだけど、自分はそれをしなかった。前日の晩も通夜ぶる
まいを終えて皆が帰り、母と弟が眠り起きて来るまで、遂にそこから父の顔を見ることはなかった。ただこの日の 13:30 から
始まる葬儀告別式に相当する集いの前、皆がまだ来る前に、業者の担当が父の顎の辺りから滲み出る血で首を押さえている白
いものが赤くなっているので取り替えるという時、蓋をずらした時には見てしまっていたのだが…。やはり死亡直後から2日
も経っていて、若干表情が変わってきている。何となく辛そうな気がして、やっぱり見ることは出来なかった。
献花が終わると、テーブル等を片付けて、全員で父の祭壇の前に集まって記念撮影をした。中央で笑っている父の遺影が良かっ
たと思える写真になった。自分だけやけに固まっている感じがするのがダメだけど、皆ややリラックスしたようで良い写真に
なったと思う。
そして出棺まで残り 30 分というところで、遂に納棺の儀。
父の棺が部屋中央に置かれ、蓋が取られる。相変わらず眠るように横たわる父。やはり顔が若干やつれたように見え始めている。
まずは祭壇一面に飾ってあった供花を業者の方で抜いて盆に乗せて貰ったので、そこから銘々がそれぞれ、顔だけが見えるよう
に花を抜いては棺に納めていく。皆が思い思いの言葉をかけてやりながら、父の体を花畑に変えていく。もう 15 年も前に、
西宮で行ったカトリックの葬儀で祖父の棺も花に埋もれた…のと同じになることを望んだのかも知れない。生前、このような
ことを望んでいたと聞く。きれいな沢山の洋花で埋もれた父の体の上に、供え物のお菓子や、そして生前望んだという家族の
写真を載せた。起きた時に見やすいように胸元辺りに、写真の下側を顔の方に向けて。その写真は、母が選んだ昔のプリント
を自宅でスキャンして L 版プリントに印刷したもの、そして昔から何十枚もある家族のデジカメ写真の中かから、昔の元気
だった頃からつい先日の正月の時の写真までを選んで、同じく自宅で L 版プリントに印刷したもの。これは前日の通夜に相当
する集いでも皆に見て貰ったものだった。正に、この為に、年末ぎりぎりに写真印刷も出来るプリンタを買ったのだった…。
だから、まだ父の意識ある内にこれらの写真の殆どを見て貰うことも出来たし (棺に納めるとは言わなかったけど)、本当に
良かった。元々、年賀状は書くつもりなかったのでプリンタは当面買うつもりなかったんだけど、この為に買ったのは本当に
良かったと思う。また、L 版にプリントした写真だけでなく、2枚ほど A4 サイズに印刷した写真も棺に納めた。この写真は
この為に用意したのではなかった。もしかしたら先日の日記に書いたかも知れないけど、確か個室に移るより前の、まだまだ
意識がそこそこ残っている時に、暗い部屋で頭がぼうっとしていても通常写真サイズの L 版プリントよりは大きい方が見やす
いだろうと思って思いつきで用意して持っていったものが、たまたま他の書類と一緒になって持ってきていたことに前日の集
いの後で気付いたので、これも一緒に供えておいたのだった。これなら、最初に目覚めた時に真っ先に目に入るに違いない。
ここでふと業者の担当 (この人が (一応喪主としての母を差し置いて今回の式の代表者であると認識している) 自分を呼ぶ時
のタイミングや声のかけ方は本当にプロだ) に声を掛けられて、前日の通夜ぶるまいの時から遺影の前に供えてあるオレンジ
ジュースも故人が好きだったのであれば棺の中に入たらどうですかと聞かれる。事前に水分は無理だと言われていたので、ど
うしてかと思うと、例えば生前酒の好きだった人の棺に酒瓶をそのまま入れるというようなのは駄目だが周囲の花々に少しず
つ掛けてやるのなら構わないと言う。オレンジジュースは特に好きだったというより、もう氷すら欲しがらなくなった頃最後
に美味しいと言って少しずつ舐めたという家族にとってはひどく印象的なエピソードに由来するものだったこと、また出来る
なら最後は舐めることしか出来なかったのでそんな少しずつ花を湿らせるようにして死ぬ直前のような飲み方でなくてもっと
普通に (親の家に行く時は、良くお土産としてタカノの生ジュースを買っていってやっていったのだけど、とても美味しいと
言って飲んでくれていたことが懐かしいというより掛け替えのない記憶となって甦る) 飲んで欲しいという気持ちが強いとい
うのがあったので、一応母の意見を聞いてみることにした。その結果、やってあげようということになったので、母から全員
にそのエピソードを話して聞かせて貰って、それから皆が交代で少しずつ全身の周りの花々に染み込むようにジュースを掛け
ていった。自分は出来るだけ口元に掛けてやった。顔に着いてしまうと染み込んでいけないということだったので、少し離れ
たところだったが、少しは飲みやすくなったら良かったんだけど…。
それまでは意識しないようにしていたのだけど、釘打ちこそないものの、ここで棺に蓋してしまうともう二度と父に触れるこ
とは出来なくなる。そう思うと、どうしても最後に触れておきたくて、病院で意識の薄くなった父にいつもしていたように額
をなでてみる。触るとひどく冷たくて、固い。ドライアイスだけが原因じゃないんだろうけど…。でもいつも熱が出て、解熱
の点滴で何とか凌いでいた時のことを思うと、熱くなくて良かった…のかも…とか少し思う。ずっとそうしていたい気分だっ
たけど、出棺時間は決まっているし自分が進行なので時間を過ぎるのもまずい。ひどく名残惜しかったが、感傷的になるのを
抑えながら次の行程に進んだ。
全員で再度蓋をして、棺は焼き場に運ばれることに。荷物を親戚に頼み、急いで着いていった。
火葬場は葬儀場より遠い場所 (多磨) を選んだので、移動は車で 40 分程度 (もっと?) かかった。外は寒かった。
火葬場では、棺の小窓から全員が最後の別れを惜しみ、係員が棺を炉に頭から押して入れていく…。
流石に、燃やしてしまうというこの瞬間は、それまでとは違ったとても嫌な気分になった。
これで遂に触れることの出来る肉体を失ってしまう。ついこの間まで動いていた、話をしていた父が消滅する瞬間。
呆然とした悲しみに襲われる。
焼き場の控え室は、その豪勢な大きな施設にしてはやたらと狭く、全員が入るとぎりぎりだった。
皆でお茶を飲みながら、最初は少し黙りがちだったが、そのうち父の話やお墓の話その他を始めた。
更に暫くすると、(お墓の賃貸の話とかで) やたら盛り上がり始め、明るい雰囲気になって良かった。
人間は、特にこういう風に身内が集まると、気分のスイッチが割と簡単に切り替えられる。こういう時はいいことだと思う。
自分と弟はタクシーで (母は霊柩車で。他は皆各自の自動車で) 火葬場に向かったのだが、自分はこの頃からまた頭痛がして
来ていて、控え室でも少し気分が悪かった。きっと疲れからなんだろうが…。
最近の炉は火力が強い。そういう訳で、「焼き上がり」は1時間弱だった。
炉の中から出て来た父は、その遺骨が現状をとどめない形で出て来たので、母もショックを受けず良かった。
確かに、人の形をして出て来なかったのは良かったのかも知れない。それでも、それはそれで少し呆然とした。
そして、場所を変えて「骨あげ」を行うことになったのだが、ここで家族を含め多くが衝撃を受けた。
そこに用意された骨壺は、(家に飾る用の) 分骨用の小さいのはいいとして、問題は墓地埋葬用の大きな壺だった。
その大きさは、思っていたものとはまるで違う。とにかく大きかった…。
自分達も含めて関西出身者の多い親戚は、少なからず驚いていた。自分は関西出身という訳ではないが、西宮で焼かれた祖父
の時の記憶ではもっと小さかった筈。とにかく、このままの大きさでは芦屋のロッカー型のお墓には入れられない。かと言っ
てこれだけのものを家に飾っておくのも不可能に近い。結局、時間もないし新しい壺を用意する時間もない (名前とかが彫ら
れているしすぐに用意は無理そうだった) ので、大きい壺を分骨用として喉仏の舎利骨を含むほぼ全てを入れることになった。
母には家に分骨した骨壺を置いておきたいとの意向があり、いつも話が出来るように喉仏は入れておきたいと言っていたのだ。
収骨のやり方は、その焼き場では、こうだった。
まず係員が骨をステンレスのお盆のような上にまとめてから幾つかの部位に簡単に分類する。
そして (仏教的に) 通常通り2人1組になって長箸で足から拾っていくのだが、それが出来るのはそれぞれの人が1回ずつ。
それ以降は、係員がひとつひとつ骨の部位の説明をしながら壺に納めていく。
自分達は、ひたすらそれを眺めているだけだった。こんなページにあるような面白いエピソードも特にはなく…。
係員がひとつひとつ説明をしていく訳だけど、そのうちある大きめの骨を取り上げて、それが肩胛骨だと説明した。
その瞬間、死の直前にあった父の肩を押すようにして体を窓側に傾けた時の手に直接肩の骨が当たったように感じた感触や、
病気で徐々に痩せていった肩を揉んでやった時の感触が甦るようで、その時が一番涙が溢れて仕方がなかった。
そして一番気になっていたのは歯だった。これはもう、意識が殆どなくなる直前まで、何も食べられなくても必ずベッドの上
でいつも歯を磨いたり歯間ブラシを使ったりいつも (歯槽膿漏を気にしていた) 歯を気にしていたからで、その歯がなくなっ
てしまうのは余りに可哀想だと思ったからなのだけど…。前歯はもう痕跡しかなかったけど、奥歯はしっかり顎の骨に残って
いた。ちゃんと丈夫にしていた甲斐があったんだと思って、良かったと思った。基本的に歯は熱で歯茎ごと取れてしまうとい
うことだけど、なくなってしまっていたら余りに悲しかったから。その他の骨もしっかりしていて、というよりまだ若いのだ
し当たり前かも知れないが、とにかく丈夫で原形をとどめているものが多かった。それだけに、あの病巣さえなければ…とい
う思いがいや増すばかりなのだが、もう仕方がないことだ。
最後は、喉仏と頭蓋だった。これだけ原型を崩さず出て来るのは珍しいと言いながら、係員が喉仏が喉仏と言われる由来を説
明した。こういう形で、喉仏の骨をこうまでして間近に見るのは初めてだったが、なるほど言われてみれば全くそう見えない
こともない。父はこういうの知っていたんだろうか? 父はたまにそういうちょっとした知識を披露してくれることがあった
けど、これは父が最後にこういう形で教えてくれたのかもしれない。次に頭蓋の下の部分。大きな穴が開いていて、係員はそ
れを神経が通る穴だと説明してくれた。そして一番上に頭蓋の上の部分が敷き並べられ、蓋がされた。
それから、3人で遺影と骨壺2つをそれぞれ手分けして抱いて運び、タクシーで元の会場に戻った。他の人達もそれぞれ2台
の乗用車に乗ってついていった。
この時はやはりやや具合が悪く、乗ってすぐにひどい寒気がして途中で尿意を抑えきれずに公園で止めて貰ったのが最大の失
敗だったかなぁ…。それで皆が和めばいいんだけど。祖母もしたかったらしくて、丁度良かったけど。
戻ってからは夕食会。もう翌日もあるし、皆2日連続なので疲れているだろうしということで、17:30 頃に開始して約1時間。
ちょっと皆疲れ気味だったと思うけど、それなりに楽しんで貰えたと思う。テーブルの奥には父の遺影とお骨があって、そこ
にはちょっとだけビールを注いだコップを置いてあげた。2日連続オレンジジュースも飽きるだろうし、かと言ってビールと
かお酒は飲めない人だったから。でも病気になってからずっとアルコールは全然飲んでなかったし、ちょっとなら久し振りに
いいかな…と思って。今思えば、大量の熱いお茶でも良かったかな…と思うけど、それも何だかって感じだし、良かったかな。
皆が帰ってから、少し費用の精算等の話をしたり、その他今後のことについて若干業者の方と相談したり。
特に骨壺の件は、夕食前にちょっと聞いた時に簡単に教えて貰った衝撃の事実とその対応について、夕食中にもちょっと話し
たんだけど、分かる範囲で何かいい方法があれば教えて欲しいとお願いしておいた。ちょっとこういうのはサービス外になる
と思うし、ちょっと申し訳ないんだけど、快く引き受けてくれたので本当に良かった。こういうのはやっぱりプロに頼るのが
一番良いと思うので。
実際、夕食前にちょっと聞いて、担当の人が偶然なのかちょっと知っていて良かった衝撃の事実というのは、関東と関西とで
は収骨の仕方が違っていて、骨壺のサイズも違うのだということだった。関西のことしか知らない人達ばかりで構成されてい
るウチらには、想像もしないことだった。だからいきなり目の前に現れた (確かにテレビとか写真とかでは良くあんな白木の
箱があったような気もするが…) あの大きな骨壺には唖然としたし、唐突に現れたこの大問題におろおろせず対処できる人は
いなかったのだけど。つまり、それが法律などの根拠があるのかどうかは分からないけれど、関東では全部収骨であり、関西
では部分収骨なのだそうだ。だから関東では、あれだけの大きさが必要になるし、お墓にもあれを全部納めることになる。関
西ではロッカー式のようなお墓も多くて、骨壺のサイズも違うんだそうだ。ただ、色々調べると部分収骨だから骨壺も小さく
て、だからお墓も小さいということもあるようだけど。で、実際、祖父の時も、今回分骨の為に用意して貰った小さい方の壺
より一回り位は大きい壺が用意されていたと思う。まさか全部入れるのだとは思いもよらなかった…。生まれてこの方、殆ど
関東に住み続けていながら、関東の常識を知らずにい続けたとは…。
遺影や骨壺など、荷物が多いので、帰りはタクシーで帰ることになった。また自分も直接自宅に帰るつもりだったけど、今後
の予定なんかを皆で確認したり色々することがあるし、時間も遅くなったのでということで、親の家に一緒に行ってそのまま
泊まることにしたのだった。
やはり頭痛と吐き気が続き、延々タクシーの中では眠っていたのだけど車酔いのような気分もあって気分は良くならなかった。
タクシーを出ると風が冷たかった。元々の荷物に加えて、遺影とお骨が2箱、そして花束が2束。3人いないと荷物運ぶのは
つらかったかもしれない。
とにかく気分が悪くてソファに横になった。いつものようにして横になって、ふとそのままでは足が遺影とお骨を置いた場所
にくっつく程に向いてしまうことに気付いて、慌てて逆方向に横たわる。暫くずっとそうやって横になりながら、話だけして
いた。頭痛と吐き気は今までにない位にひどくなっていた。
やたらラーメンとか塩分が欲しかったのも、胃腸が悪くなっていたからかもしれない。
それでも暫く横になっていると、若干良くなったので、父がテーブルの上に遺した作業用の箱の中の整理と、直近の計画の確
認だけした。作業用の箱の中には、父の日記帳からメモ帳その他、貰った手紙とか色んなものが雑多に入っていたので、その
中から今気にしておく必要のあるもの今正に重要と思われるものだけを抜き出した。そして、それらの説明や振り分け。これ
がやたらと時間がかかって0時近くになったので、ひとまず母には風呂に入って寝て貰った。それから続きを弟と少しやって
自分も風呂に。風呂から上がると2時だったので、殆ど眠っていた弟に風呂に入って貰って、布団に入った。
入った布団の中は、そのタオルケットが少しぐじゃっとしていた。
よく考えたらこの布団は、つい先日軽い頭痛を感じながら寝た3時間後に病院の弟から電話があって慌てて飛び起きた時以来、
そのままなのだった。つまり、その布団に最後に入った頃にはまだ父は何とか生きていた。そもそもそのベッドは父の寝てい
たものだった訳で…。
父がテーブルに残した作業箱は、あの吐血してから自分で着替えてひとりでタクシーに2時間乗って病院に行った (それで生
きていたのは奇跡と言われた) 日から、少し一部父のものが入っただけで殆ど何も変わっていなかった。
日記は、今はとても読めるような心境ではない。最後の方は指の力も頭の力も衰え、日付は間違い字も薄くて読めずその内容
も…ということらしかったが、どちらにしろそれを読めるようになるのはずっとずっと後になってからだと思う。今読むと、
何もかもが余りにリアルすぎるというのと、生きていた父の心にこれ以上触れるというのは、今はとても…。
それでもその作業箱の中身を振り分ける際、幾つかは読まなければならなかった。
とあるノートが入っていた。表紙もなく、とりとめもなく色々なメモを書いていたもののようだった。母の為の特別な家計簿
の構成をどうしようかと考えた時の途中の様子が書かれていたり、或いは冷蔵庫の中のもの一覧、買い物のリスト、献立なん
かが書かれていた。冷蔵庫の中のもの! 少し前の父は冷蔵庫の中の食料品の在庫について気にするような人ではなかった。
これは恐らく、母が入院して自分で食事を作らなければならないと思った時に、最初に手に付けた作業の記録なんだろう。し
かしあの父が…信じられない。その次に買い出しのリストが書いてあったりしていて、それは数日分書かれていた。料理とは
一生縁がないと思っていた父が、自分で作る料理の献立をノートに書いていたというのは、もうそれだけで驚きだった。勿論
母が入院中、同居を始めた弟の為に毎晩、自分が余り食べられない時にも夕飯を作ってやっていたことは知っていたし、いつ
だったか弟が美味しいと言って食べてくれると嬉しそうに話してくれたことは未だに覚えている。またその中に、その晩の献
立の材料に肉と書かれていて弟がまずいと言った残りと括弧書きで注意書きがあった。これは母が入院前に安い肉を買って失
敗した奴だったらしい。その下には、その肉を料理酒その他で漬けて肉丼にするとあった。弟はそれを食べたと記憶していた。
美味しかったらしい。実際、全く信じられない。あの父親がまずい肉を漬け直したりしてまで手を加えて、しかも弟が美味し
いと思うような料理をしていたということが。でもそうやって弟が美味しいと言って食べてくれるというだけでも、至上の喜
びじゃなかったのかと思う。傍目には、死の淵にあって闘病中の父が転がり込んできた弟の夕飯の面倒まで見ている…という
ように見えたろうが、実際にはとても生き甲斐に満ちた日々…だったのかもしれない。吐血して自ら病院に行った日も、その
日の夕飯の仕度でお米を研いでいる途中だったというし、父の晩年はそれまでずっと仕事をしていた頃の父からはとても想像
し得ない日々だったが、それなりにとても充実した日々でもあったんだろうと思う。
また、ひとりで出掛けた時のメモも見付かった。電車の乗り換え時刻とか買い物リストその他が書かれていた。入院していた
母の見舞いにも結局ひとりで出掛けてしまったが、あれも本人は大丈夫なつもりでも無理だったんだろうと思う。あの後すぐ
に倒れてしまったのだから。ただ、ひとり家に残されるより家族と一緒にいたりする方が良いと言っていたらしいから、それ
はそれで、やっぱり良かったんだろうと思う。それを聞いた時は、確かにそれはそうだろうなと思ったものだった。
また「眠れぬベッドの中で」と書かれた、これからの社会を生きる為にはというような書き物も見付かった。A3用紙に裏ま
でびっしりと書かれていたそれは、大昔のムラの時代から現代に至るまでの社会とそこにある人々の生活や立場の移り変わり
とそこから今後を生きるには…というような結論とが長々と箇条書き中心に書かれていた。何を思ってそれを書いたのか、今
となっては分からない。今後の社会に生きる残された人達のことを考えていたのかもしれないし、単に眠れないままに思いつ
くことを徒然と書いただけなのかもしれない。ただ、それを書いた翌日、父は入院し、そのまま帰らぬ人となった。
親を亡くしたという実感は、忙しさに紛れてか、なかなかまだ湧いてこない。
色々なことをしながら忙しいと言っているうちに夜になり、眠りに就く。
一体どういう時に、悲しさや寂しさを実感するのだろう。
その人を無意識にでも頼りにしていたことに気付いた瞬間に喪失感を感じる時?
その人の心の中に触れた時? これは、その人のつけていた日記や、自分に宛てられた手紙を読んだ時?
どちらも、いずれは訪れるのだろうが、日記と手紙はまだまだ読む気になれない。

1月15日(木)
朝から、葬儀業者の担当者から骨壺の件で電話があって、それで起こされた。流石に出来る人は仕事が速い。素晴らしい。
その後も、今回の件を知った人達 (実際にはまだ殆ど連絡してないから余りいない筈だが) から電話があったりした。
それでも眠くて皆ずっとベッドの上。
自分と言えば、電話で目が覚める度にひどい腹痛でのたうちまわっていた。最後は何とかなったが…。
前日、余り食欲がなかったのも、そのせいだったのかもしれない。
夢を見た。
でも、9:30 に起きて会社に遅刻するとか騒いだり、ノート PC をいじったりしているような、どうでもいい夢だった。
実際その夢を見た後に目覚めた時はまだまだ早い時間だったので、安心して寝直してしまったのだけど。
結局昼近くまで寝てしまったので、昼には帰る予定ですっかり忙しくなってしまった。
片手で餅を食べつつ直近の作業内容を最新版にしてまとめてから、一気に説明して 13 時半に家を出て、帰宅した。
役所関連は平日しか出来ないから、早めに帰って色々書類を取ったりしないといけないし、捜し物もあるかもしれない。
結局役所関連のことはぎりぎり 17 時までに終わることが出来た。
ずっと家にいない間に、長い間音信不通になっていた S.A. サンからお悔やみメールが届いてた。
基本的には誰にも言ってないのにどうして突然…。どこから伝わったんだろう。というか、自殺か…。生きようね。
頭痛と吐き気が治まらないので、医者に行った。
取り敢えず、吐き気よりも頭痛の方が仕事が出来なくて困るので、対症療法で構わないからと頭痛薬を貰うことにした。
原因が疲労とかそういうものかもしれないと言って、頭痛薬だけでなくて安定剤も処方してくれた。
頭痛薬は…ロキソニン………。
父も食べられた頃まではずっと使っていて、母も手術後から今もまだ服用している薬。まさかこれを処方されるとは…。
でもちょっと調べてみると、これってどうなんだろう……。何かあんまり良くないような? 実際、あんまり効かないし。
初めて処方された安定剤ってのはワイパックスって奴で、これは…どうなんだろう。使ってみても特に変化なし。
まあ、実際、そういうのが原因じゃないような気がするし、そこまで精神的に落ち込んでる余裕もない筈だし。
それにちょっと調べてみたら、この副作用の羅列は一体………。まあ、どんな薬でもそんなもんだろうけど…。
というか、某 2ch でワイパックススレなんてあるって、そんな有名な薬なんだ…。
取り敢えず、自分にはやっぱり関係ないような気がするな。
夕食は作る気力もなくて、でも何となく食欲もなくて、誰かとどうでもいいことでも喋りながら軽く食べたいかとも思ったけ
ど、誰も都合が良くなかったみたいだったので、仕方なく商店街の個人店なそば屋に入った。夕方だったし、個人の店だった
し空いてて良いかなと。小学生位の子供ともっと小さい子供が出入りしていて、その子達に声を掛けてるお母さんが店をやっ
てた。全部手作りらしくて、雰囲気も思ったより悪くなくて、地味ながらも美味しくて、ひとりで落ち着けて良かった。少し
これを書いたりしながら食事をして、帰宅した。
その夜は、久し振りにネットでニュースを読んだりした。
もうずっと新聞も読まず、随分世間から取り残されたような気がしていたのだけど、少し人里に帰ったような気分だった。
そう言えば、父が最後に当日のニュースを気にしたのは、確かその日の朝刊にイランでの大地震や飛行機事故が載った日だっ
たっけ。それまでは何とか新聞を読んだりしていたのだけど…。それからはもう、意識が危なくなり、思考も弱くなり、自分
でも徐々にそうなっていっているのを悲しく感じつつもいつしかそれすら分からなくなり、何となくちゃんと考えているんだ
ろうと推測はするものの、殆ど言っていることが分からなくなって…。最後に母が父に聞いておきたいことを書いて貰ったの
を見せて貰ったけど、あの頭の働く父が…と絶句するのを抑えるのに苦労する程に、それでも必死に考えて書いてくれたんだ
ろうと思うともう何とも言えない気分だったが、とにかく書いてあることは殆ど意味のないものだった。ただ、母もそれが意
味のあるものかどうか自信がなくて聞いてきた訳で、母のこれからも非常に心配なのだ…。
それから、例の骨壺のことについて、調べてみた。
やはり、関東では燃骨を全て骨壺に入れるので6〜7寸が普通で、関西では部分収骨が基本だから納骨堂 (カロート?) に合わ
せて (?) 5〜6寸程度のものを使う…らしい。ただ、これも情報のぶれが結構あるので、具体的には何とも言えないけど…。
それから、小さい壺に移すとした時の最大の問題は、やっぱり、余った (?!) 骨の処分方法。多磨の斎場では移し替えはして
くれても入りきらなかった骨の処分はしてくれないと言う。でも関西では当然やってくれる。では一体どうすれば…? お骨
をペンダントやそういったものに加工してくれる業者があるらしいけど、それもね…。実際、処分の方法も色々あるみたいで
バキューム式収集機で一定量が集まったら骨片化したり高温で溶かしてしまうという話があったり、こんな話もあるみたいだ
けど…。しかし、全部収骨の関東では骨格標本のようにきれいな形が残る…という話はどうなんだ。実際は、逆に関西で焼い
た祖父の方が形が残って、関東で焼いた父の方はそんなことなかった…。
というか、某所にて「関西だけど、西宮満池谷斎場だと、関東の方向けの骨壺が売られてたっけ。直径6cmの骨壺から直径25cm
の骨壺まで並べられてて、価格表示されてたよ。」という書き込み
があった。何と、あそこに?! という訳で、そういうとこ
ろもあるということか。ちょっと問い合わせてみてもいいかもしれないな…。墓も芦屋の霊園で、近いし、西宮なら庭だし…。
気付くと5時近くになっていた。

1月16日(金)
また昼近くまで寝てしまい、しかも何もやる気が起きなかった。
それでも午後から、銀行やらあちこち電話して色々と確認したり、本を読んで勉強したりというのはやった。
それから1週間ずっと殆ど家にいなくて、冷蔵庫の中のものの賞味期限がやばかったりしたので片付けたり。
他に、色々やってたらあっという間に時間がなくなってしまって、21 時近く。慌てて家を出た。
予定よりだいぶ遅くなって親の家に着いたのが 22 時近くだったと思う。
父の祭壇 (後飾り) の組み立ては予定通りの位置に出来ていて、花に囲まれて凄く良い感じだった。
それからこの日にやったことを皆でまとめたりしたけど、結局、母も弟も眠くなって寝ることに。
自分もあんまり眠くなかった筈だけど、風呂に入ってベッドに入ったら、眠り込んでしまった。
この日思ったこと。
銀行の口座凍結ってのも、思った以上に銀行によってマチマチのようだということが、念の為各銀行に確認して分かる。
それにしても、思ったのは、仮に母子家庭でまだ子供が幼稚園未満とかで母が急逝したのに他に身寄りがない…といったよう
な場合って、一体全体どうなっちゃんだろう…ということ。勿論国とか自治体が後見人のようなものになるのでは…と思うけ
ど、そういう特殊なケースって、相当大変だろうなぁ…と思ったのだった。それから、こういうケースもあるようで、こうい
うのを見ると、それを思えば…って思ってしまった。ただ、銀行の口座凍結がどういうタイミングで行われるのかって仕掛け
が少し見えたので、ある意味やりやすくなるかもしれない。取り敢えず、後々に面倒にならないようにこちらから凍結依頼を
しておいた方がいいような気もしてきた。
戸籍謄本に関しては、現戸籍の謄本取り寄せ中だけど、その前と更にその前があって、多分その間に改正が1〜2回あるだろ
うから改製原戸籍もいるだろうし、勿論どっかで除籍謄本になってたらそれがいる。時間がかかるが、期限が思ったよりも厳
しくないようだったので何とかなりそう。ただ、それまで遺言書の検認ができないのは、今後の作業を考えるとちょっと痛い。
それにしても、こうもやることが多いと、父の遺品整理や形見分けみたいのが出来るのは、まだまだ当分先の話になりそうだ。

1月17日(土)
またもや昼間で寝てしまった…。いい加減疲れたもないだろうし、やることが沢山あって寝てる場合じゃないんだけど…。
ただ、頭痛と吐き気は余り治らない。
父に、いつもの女性陣から 10 名の有志一同として大きな花束が届いた。全く有り難いことだ…。
全く知らないところでも、父は多くの人々から慕われ愛され尊敬されているということが、直接的にも間接的にも分かる。
誰もがそう言うし、そういう手紙は後を絶たない。皆にとって本当に素晴らしい人だったのかなぁ…と改めて思う。
実際、昔はそんなことさっぱり思いもしなかったけど。
午後に予定よりずっと早く親戚がやってきてちょっと慌てた。その人も、だいぶ昔、夫が 65 の時に亡くしているばかりか
阪神大震災では家を失い、あちこち避難生活をしたりと苦労してきた人だったのに、そんなそぶりも見せない。同じような境
遇となった母とこれからも色々と話をしてくれるといいなと思う。その人や息子さんも、うちの父のことは随分良く思ってて
くれたみたいで、これだけ誰にでも好かれ尊敬されるというのは、やっぱり凄い。とても自分には一生無理だ…。
沢山の書類の確認やら何やらやるべきことは実は沢山あった (というより、どうしてこうも手続きが必要なことが世の中には
あるのかと訝る程に余りに多くの手続きや細々とした不明点があるのだ…何とかやろうと思う前にげんなりとしてしまう) の
に、昼にそういうこともあったりしたこともあって、殆ど夜になって始めたようなものだからひどく忙しく、自宅に帰宅した
のは深夜過ぎた頃だった…。何とか終電に間に合って良かった…。

それにしても、肉親を失うということは…未だ余り大きく実感は湧かないけど、多くのことを考えさせられる。
自分に課せられた責任とか…。今の自分には重すぎて、とても考えられない。特に自分を捨てようとしている時には…。

それにしても、頭痛と吐き気は、弱くなることもあるけど、まだまだ治らない。
何となくいつものと違って、どっかが悪いような気もするんだけど…。
ただ、今はそれどころじゃないからな…。月曜日からは仕事にも復帰する予定だし。
もう少し様子見て、それでもおかしいようなら、もうちょっと考えるかな…。
月曜日から土曜日。本当に短い間だった筈だけど、1年位はあったような気がした…。
そろそろ非日常から日常へと徐々に戻って行かなくてはならない。

今日 (これを書いている時点ではまだ土曜日の 29:30 ) は雪の日。東京でも朝と夜は雪だった。
夜、自宅に戻る途中、空を見上げると、吹き付けて来る雪が綺麗だった。


BGM: "Smile" from 'Modern Times' by Charlie Chaplin

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